作家紹介

近藤濶(故)

1936年京都生まれ、2012年没。大正〜昭和に活躍した染付の人間国宝・近藤悠三(こんどう・ゆうぞう)の次男。師匠でもある父の作風と技法を継承しつつ、独自の世界と表現を切り開いている。染付、特に白と藍のコントラストが美しい呉須(ごす)の技法を基軸とした表現は海外でも評価が高く、作品は外務省の買い上げや大英博物館の所蔵品もあり、現代染付陶芸の代表作家として国内外で活躍する。現在も生家であり父の作品を展示する記念館「近藤悠三記念館」を管理しつつ、裏手の陶房にて作陶を続ける。ご子息は現代美術家として活躍する近藤高弘氏。

人間国宝で染付の大家・近藤悠三。清水の地で活動した彼は、「ちゃわん坂」の名付け親でもあります。
そんな父を持つ近藤濶さんも、創作活動の傍らで、記念館の開設、地域の子供たちに地元の文化である陶芸と触れ合う機会を設けるなどの地域活動も行ってこられました。
京都、清水の地への熱い思いと将来への希望を、熱心に語っていただきました。
(※以下インタビューは生前当時のものです。)

「ちゃわん坂」の由来と近藤悠三

近藤濶先生(以下K)
「ちゃわん坂」というのはね、大正11年ごろくらいまでは「清水新道一丁目」という名前できていました。古い地図なんかを見ると、本当はこの辺一帯は「清水門前町」といいます。その中でもこちらの(ちゃわん坂の道)はそのころには「清水新道一丁目」という通称できていたわけです。そのうちに人が沢山このあたりに来るようになって。それで、「新道」じゃ面白くないし、「門前町」でも門の前だけの意味になってまうから、だったら「ちゃわん坂」という名前にしたらどうかな、ということになってね。これはまだ親父(近藤悠三)がいるときの話で、たまたま親父と話していたら、「京都には「女坂」「二年坂」「三年坂」というのがあるし、それやったら「ちゃわん坂」はどうやろう」って言うててね。そりゃ面白いなぁと。ということで、この辺に繁栄会(町内会)ができたときに、「ちゃわん坂」という名前をつけて、坂の下に碑(※)を建てました。それで、わかりやすいようにひらがなで「ちゃわん坂」と書いたほうが面白いやろう、というので、あれを書いてもうたんです。(※ちゃわん坂の分岐点にある石碑。この碑の文字は近藤悠三の筆によるもの)

インタビュアー(以下I)
そこらへんから、この道が「ちゃわん坂と呼ばれるようになったんですね。

――K>
ええ、そうです。もう10何年になるのかなぁ…いや、もう20年か(笑)

――I>
比較的新しいのですね。

――K>
それでもまあ、今ではだいぶ浸透しているというか…タクシーの運転手さんでも「ちゃわん坂」いうたら来てくれるもんね。

ちゃわん坂との係わり合い

――K>
この通り(ちゃわん坂)と五条坂は係わり合いというどころじゃなくて、むしろ繋がってますわな。われわれは今は「陶芸家」といってますが、京都の場合、陶器作りは「分業」です。染織品もそうですが。ろくろの人、壺をひく(造る)職人さん、皿をひく職人さん、小さいものをひく職人さん、絵付けの人、窯に詰める人、焼く人、出来上がったものを客へ送る人…そんな風に、全部の工程が分けられるんです。

ところが明治に入って…まあ、坂の上にいるのから順に言うと、近藤悠三(父)、河井卯之助さんちゅうて河井成徳さんのお父さん、清水六兵衛先生、それから八木一夫さん、五条坂に出て浅見隆三さんとか、今も現在おられる小川文斎さん、そういう色んな人たちが、それまでの分業から一貫作業が出来るように…いわゆる「作家」と言われるような形に「分かれた」んですわ。それまでの職人さんというのはろくろならろくろしかしなかった。それを一貫して、形も作り、絵も描き、何もかも出来て、それで初めて「作家」と言うような名前に変わっていったのです。

――I>
では、「作家」さんというのは基本的に全ての工程をやる方のことをいうのですね。

――K>
そういうことです。だから、係わり合いっちゅうのは…五条坂の関わりあいというと、今で言うこの「ちゃわん坂」も五条坂も(元々は)全部ひとつの道に繋がっていたわけですから、何も分かれてはいなかったんです。こちら(ちゃわん坂)のほうは元々作る人(職人)のほうが多かったんですが。みやげもの屋さんみたいなのは、昔はいなかったんです。

――I>
昔は五条坂からちゃわん坂まで、分業した職人さんが沢山、ずっとたちならんでいたのですね。それが分業から作家活動になって、一人が一貫して品物を完成させるようになっていって…。でも今は五条坂とちゃわん坂は道路が横に走っていますから、区切られてしまっていますね。今の交通事情が、繋がっていた道を切ってしまったので、文化的な繋がりも一緒に切ってしまったのですね。

――K>
そうそう。そういうことです。だから今じゃ車通りがすごくてね。他の地域でも…鎌倉の大仏周辺とかには自家用車は入れることないし、京都だってこんな細い道にまで(車)入れるなや、ってもうちっとばしっと止めなあかんと思います。
それで、お客さんには坂を好きに歩いてもらうようにしたらええ。

――I>
なるほど、歩行者天国にするんですね。

――K>
まあ、自転車くらいは辛抱したるで、ってところやな(笑)

ちゃわん坂、焼き物のまちの文化を子供たちにつたえるために

――I>
先生自身がこの地域に関して何かされた活動についてとかお話を聞かせてください。

――K>
今の小学校のこどもたちは、毎日給食を食べますし、牛乳を飲みます。でもお茶でもペットボトルとかもストローで飲んでたりするんですよ(笑)それで、「陶器というものは割れるものだ」と…小さいときに「ものを割れないように大事に扱うことも学校で教えないといかんのちゃうか」というような話をしました。それで、今から5年くらい前に、清水小学校でそういうことをPTAでしたらどうだ、という話が出ましてね。しかし、悲しいかな学校では陶器を買い与えるような費用がないと言わはるんで、「よろしい、そしたらマグカップくらいワシが寄付するし、絵を描かせて、窯を全部焼きますから、ひとりひとつずつ1年生から6年生までマグカップを作るので寄付させてください!」と言って、寄付させてもらった。そして、ひとつずつマグカップを焼いて、子供たちに持たせたんです。

――I>
それはすごい!

――K>
まあしかし、なんぼなんでも学校が続いている間中、入ってくる生徒全てにはさすがにできません、と(笑)それで、うちの孫がたまたま小学校に行っていたからということで、そのとき一回限りでやったんです。そしたら今の京都市長さん(門川大作氏。当時は教育長)が「ありがとうございます」って本当に喜んでたわ。

こういうことをしたのはなぜかというと、この「清水」というのは「陶器の町」やっていうてね、世界的にも知られている。なのに、そこの子供が陶器を使わないで、紙コップやストローないしで飲み物を飲んでるっちゅうのはんな馬鹿なことないやろう!と思いましてね。だから協力したんです。

ところが、マグカップができてから学校側は「子供たち学校の行き帰りに陶器のマグカップをもって学校に行くのがいやだと言っている」と。だったら、教育者が自分の大事なものはちゃんと割れないように大事に管理することを教えるのが当たり前じゃないかと。それなら学校に殺菌灯つきの食器棚を設けておいて、使う前に洗って、そこに牛乳とかを入れて飲めばいい、と言ったんです。そのぐらいのことはやったらどうだ?って。でも学校もPTAも結局しなかった。

――I>
教える側の意識の問題だったんですね。

――K>
意識の問題もあるし、この土地柄のことを何にも子供たちに教えようとしない、わかっていない、というのが問題なんです。

――I>
その後はどうなさったのでしょうか?

――K>
残念ながら、マグカップの件は(その時の)校長先生が辞めてしまったので、だめになりました。そこで、代わりに小学校の子供が入学してきたときに、茶碗だと大変なので、清水小学校の「校章」を陶器で作ることにしたんです。PTAはそれくらい出しなさいといって。一回に入学してくるのは多くても10人くらいです。だから僕は10個の(校章の)型を押して、陶器を焼きました。それで生徒の皆さんにワッペンみたいに貼って、安全ピンで止めて。それは7年ほど続けました。それで、清水小学校も(統廃合で閉校するので)終わりやから、やめますってことで…それが新聞に載りました。

――I>
一番最初にはいくらくらいお作りになられたのですか?

――K>
もう段々子供たちも減ってきてたから、そこまで多くはないんです。一クラス10から15人、多くて20人くらいやったから。全部で110個くらいやったかな?

――I>
今度、5つの小学校と2つの中学校が統廃合で一つになります。この機会ですし、この話を基点に同じような活動ができたらよいですね。

――K>
一人ではできないことは他の作家さんともみんなでやったら、大きなことになるんちゃうかな?まあ、喜んでくれはった人も邪魔くさいなといった人もいろんな人がいますがね(笑)小学校を卒業したときに、陶器の校章はその後の記念になる。陶器だから、同じ釉薬をかけるけど、全部一個一個違う。同じものは焼けない。だから余計にね、そういうことを思い出に持っていて欲しい。そういう協力をして、この地域に関して子供たちに清水の地域のよさを知ってもらおうと思うんです。陶器のよさではなくて、「こういう町なんだよ」ということを。これはやっぱり、地元の人が知らんことにはよそに宣伝も出来ないし、僕は、やっぱりそれを考えて欲しいなと思うんです。確かに欠けてるのは(危ないし)よくないかもしれないけれど、地元で焼いたもので水やお茶が飲めるっていうのは喜ばれることだと思うんだけどねぇ。

――I>
「清水」という地名のところにいるんですものね。町が一体となって、PRして広げていきたいものですよね。伝統あるところで、それに触れられる機会が用意していただけるだけでも、本当に幸せなことだと思います。正直、うらやましいです。

――K>
京都って、いい風習もあるけど、悪い風習もかたくなに守ってしまっているところがある。いいところもわるいところもある。でも、教育はそういうことじゃないんです。教育は前向きに、素直なほうがいいと思うんですけど、それがあまり今はないんですね。


京都で焼き物をするということ

――I>
京都でお父様(近藤悠三)の下で焼き物を学ばれたそうですが、何か自分で影響していると思うところはおありでしょうか。

――K>
昔、京都は都でしたから、職人さんたちは皆、勉強するために都にのぼっていったわけですよ。清水焼―ほんまは「京焼」のなかのひとつに清水焼があるんですけど、これが何故京焼の中で残っていったのかというと…皆が技術を勉強しようと京の都にのぼり、技を身につけた後に自分のふるさとに帰っていったわけです。九州から金沢から、いろんなところから(職人が)やって来る。だから京都では「何が京焼や」、という(決まった形)のが無いんです。

備前なら備前。信楽なら信楽というのは、昔から(形が)決まっている。ところが京都というのは種類がありすぎる。これは、都にのぼってきた職人さんたちがやってるのを見て、この技術はいいなと思ったら京都の職人さんも(その技術を)取る。また、別の地域から来た人が京都の職人さんの技を持って帰る。

「薩摩焼」というと、「京薩摩」(※2)ていうのと「薩摩」がある。でも「京薩摩」ていうのは京都のもんで、普通の薩摩は九州の薩摩のもんやと。これは沈寿官(ちん・じゅかん※3)さんが九州でやるときにはっきり言われたわけ。位(くらい)というか、差をつけてるものがある。特に京都ていうところは、いろんな人からの伝統的ないろんなものを勉強している場所やったわけです。

※2 薩摩風の絵付けを施して京都で焼かれた焼物。幕末から明治ごろ、薩摩の焼物が輸出され、西洋で「薩摩」がブランドとして流行したことを受けたもの。特に京薩摩は、文化の中心地だった京都らしい美的センスが生かされたデザインで人気を博した。
※3 薩摩焼の宗家。当代で15代。

だから、私も近藤悠三が親父で師匠だけど、(影響を受けたのは)それだけじゃないです。いろんな先輩方のものも見て勉強をしてきたということです。

そのくせ京都は伝統的な町なんだけど、新しい発想をして、スタート地点、革新地になっている場所でもあるんです。伝統があり、その上に新しい発信があるのはやっぱり京都。だからこれをもっと物を作っている人もそうだし、その周辺の人にそういう気持ちがないといけないと思います。

――I>
ご子息の高弘さん(※)も、大変革新的な作風のものを作っていらっしゃいますよね。京都ときくとつい、「伝統」のイメージのほうが先にきてしまいがちですが、決してそれだけではないんですね。そもそも「伝統」といっても、それは今まで続いているから「伝統」と呼ばれているわけですし。最初は皆「新しい」だったんですよね。

――K>
「創業○○年」とかいってるけど、実はそういう新しいことを生み出しているのは京都なんです。伝統・伝承があるからこそ、新しいことがうまれてくるところがあるんだと思いますよ。高弘も、五条の藤平さんのところ(※)で京都市とかと一緒にその文化を世界に発信したいといって動いてます。

※5近藤高弘さん。近藤先生のご子息で現代美術家。陶芸・染付技法を受け継ぎつつ、伝統に縛られない革新的な造形作品を制作、国内外で高い評価を得ている。
※6現在五条坂に残る登り窯である藤平窯(五条)。学校用地として購入されたことをきっかけに、京都市・教育委員会、および五条坂の陶芸作家有志らによる保存事業が検討されており、高弘さんも関わっていらっしゃいます。

世界最大の皿・近藤悠三「梅染付大皿」

近藤悠三が、京都の建都1200年の記念として制作した大皿。1200年にかけ、直径1200mm(1.2m)もある巨大なもの。制作には5年を有したそう。近藤濶先生(当時42歳)も、制作を手伝われたそうです。

「1m以上の大きさの大皿は大概歪みます。それを歪ませないように焼くのはほんまに大変やった」( 濶先生)

そのため、九州・天草や泉山陶石など、さまざまな産地の土を混ぜ合わせ、皿が歪まない絶妙の配合を求めました。それでも出来上がりまでに割れてしまったものも多く、「(完成までに)2、30個作った」のだとか。

現在は同じものが、近藤悠三記念館のほか、京都国立近代美術館と大阪の堺の個人の方、九州の窯、そして麻生元総理の元にもあるのだとか。また、少し小ぶりで同じデザインのものが清水寺に収められているそうです。

「これにはエピソードがひとつあります。実はこの大皿に、「奥村」のイタリアン料理を乗せたんです。大皿ができたときに、飾るだけではおもしろくないので、そういうことをしたいなぁ、と言ってたんだけど、さすがに親父のいる間はやっぱり…言いにくかったので(笑)亡くなってからしました。大皿イタリアンは皆さんに喜んでもらえましたよ」

なるほど、器は本来「使うもの」ですものね!

工房の名「念々洞窯」

近藤先生の工房・窯は「 念々洞」という屋号があります。これは父・近藤悠三がちゃわん坂で焼き物をするために窯を開く際、清水寺の管主(当時)だった大西良慶さんに頂いた名前。

「その時、自分は釣りが好きだったので「鯰堂(なまずどう)」とつけて欲しい、と言ったら、「それはおかしいやろ近藤さん!」って言われたらしいです」(近藤先生)

そこで、鯰の魚偏をとって、「念」の字としました。「念」というのは常に新しいという意味があるのだそう。そして「堂」ではお寺のお堂に見えてしまうので、「祠」(ほこら)の意味を持つ「洞」の字にに代え、「念々洞」と名づけたのだそうです。